本多忠勝と忠朝

本多忠勝家 略系図

本多姓を名乗る武将は忠勝のほか正信、正純、重次、康重等が知られている。
これらの武将は、本多忠勝とはどの様な関係にあるのだろうか?

本多一族とは

本多氏は、藤原兼通を初代として12代の「助秀」が豊後国本多郷に住したことから本多を称したという。

徳川幕府成立時には、本多氏は6系統に分類され大名13家、旗本45家の一大勢力を誇っていた。

宗家は、一般的に「忠勝系統」「平八郎家」と呼ばれ、主な人物は、忠政、忠刻、忠朝、政朝、政勝、忠英等がおり、明治4年の廃藩置県時には第16代忠直が三河岡崎藩5万石の大名であった。
また、同系統から播磨山崎藩1万石及び陸奥和泉藩2万石の大名がでている。

忠勝から5代前の定助からの分家に「彦八郎家」があり、忠次、康俊、俊次、忠相等が見え、廃藩置県時には近江膳所藩6万石、伊勢神戸藩1万5千石及び三河西端藩1万石を治めている。

同じ定助からの系統に「作左家」があり、鬼作左で知られた重次、重富、越前福井藩家老の富正等を輩出し、廃藩置県時には副元が越前福井藩32万石筆頭家老を務めている。

忠勝から遡ること7代助政の分家定正の流れに「弥八郎家」があり、有名な正信、正純父子、政重(直江勝吉)、政長(加賀金沢藩120万石家老)がおり、廃藩置県時には政以が加賀金沢藩102万石家老を務めている。

正信の弟正重を祖とする「三弥左衛門家」には、正貫、正永(下総国船戸藩主)がおり、廃藩置県時には正憲が安房長尾藩4万石を治めていた。

同じ定正の流れに「彦次郎家」がある。康重、康紀、利長、助芳(三河岡崎藩第4代藩主)等がおり、廃藩置県時には、助寵が信濃国飯山藩2万石藩主となっている。(寛政重修諸家譜)

本多忠勝家 略系図

本多忠勝家 略系図

文責 山口總源

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本多忠勝と忠朝
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